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《世界史解説》女帝マリア・テレジアの大改革!~王、政治家、そして母であった女性~





今回は、ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアについて掘り下げたいと思います!

彼女の行動力、実行力、政治家としての素質、女性としての暖かさは素晴らしい!

今の時代の日本に欲しい人材です…。

まだハプスブルク家の解説(ハプスブルク家誕生〜マリア・テレジア)を読んで無い方は先にそっち読んでからの方が時代の雰囲気がわかるかも↓↓↓

《世界史解説》世界有数の名門貴族ハプスブルク家①誕生~マリア・テレジア

女帝マリア・テレジア

彼女の何が凄いのか・・・。

まず一つは、当時オーストリアでは認められていなかった女帝として40年間も王様をやってのけたことです。
オーストリアではフランスと同じサリカ法典が用いられていました。

※サリカ法典 :
フランスの前身であるフランク王国時代に作られた法律。これによって王は男性のみと定められています。

しかし、彼女の父であるカール6世には男の子が生まれませんでした。このままでは代々続いてきた名門のハプスブルク家が途絶えてしまうと危機感を持ったカール6世は、「国事詔書(プラグマーティッシェ・ザンクツィオーン)」を発布し、なんと女性の皇帝を認めてしまいます。

これによってマリア・テレジアに玉座が回ってくる事になりました。

しかし、オーストリア=ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の皇帝家でもあったので、ヨーロッパ各国で「女が皇帝なんてとんでもねぇ!」ということになってしまいます。

そこでオーストリアは苦肉の策として夫フランツ・シュテファンを皇帝とし、マリア・テレジアを皇后という形にはしたのですが、ハンガリーなどの支配地域では「女王」という位置づけになったので、他国からは批判の声があがります。

特に、この時イケイケで勢力を伸ばし続けていた後にドイツ帝国になるプロイセン王国はオーストリアに対してかなり敵対心を持っており、
「領土を割譲してくれるんなら女を認めてやるよ」的な態度でした。

それにバイエルンなど神聖ローマ帝国の様々な領邦が便乗し、皇帝になったばかりのマリア・テレジア(23歳)は戦争を始める事になります。(オーストリア継承戦争)

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彼女が凄いのは23歳のこの時点で第四子を妊娠中だったということです。

結婚が17歳だというのにかなりハイペース。

しかも妊娠中にも関わらず、ハンガリー議会に乗り込み、大演説を繰り広げて、ハンガリー人の同情と協力を取り付けることに成功します。

(・・?)「支配地域なのに、何でわざわざ協力を取り付けるのが必要だったの?」

そもそもハンガリーはハンガリー王家が断絶した際に、ハプスブルク家がその親戚であったので半ば強引にオーストリア=ハプスブルク家の傘下に入れられたという経緯があります。

しかも民族もハンガリーはマジャール人なのでオーストリアとは異なっており、マジャール人の中ではオーストリアに対抗心を持ち、ハプスブルクによる支配に懐疑的な人も多くいました。

その中でマリア・テレジアは、ハンガリー国旗🇭🇺に合わせた衣装を纏い、生まれて間もない第四子(後の皇帝ヨーゼフ2世)を胸に抱き、「この子を抱いた私を助けられるのはあなた達だけなのです。」と母親の優しさを込めてマジャール人に訴えかけました。



何週間にも渡る交渉の末、彼女の若さに似ない強かさと優しい包容力で無骨者のマジャール人の心をも和らげました。

マジャール人は彼女の魅力に取り付かれ、遂に「我々は我が血と生命を女王に捧げる。」と女王に臣従することを心から誓ったのです。

そしてハンガリー軍は戦争で大活躍する事になります。それまで敗北一方だったオーストリア軍ですが、ヨーロッパ有数の騎馬隊を持っていたハンガリー軍が奮闘しました。
取られかけた領地を奪い返すだけでは収まらず、逆にバイエルンを占領します。

こうしてオーストリア継承戦争は一段落したものの、最初にプロイセンが要求したシュレジェン地方は奪われてしまいました。




シュレジェンは地下資源が豊かで、オーストリアで最も工業が発達した地域でした。

なのでオーストリアとして何としても取り返さなければなりません。

そこでマリア・テレジアは、長年の宿敵でオーストリア継承戦争の時には敵国であったフランスのブルボン家と同盟を結んだり(外交革命)、新たにロシアを仲間に呼び込んだりして、七年戦争を始めます。

それまでの外交方針を変えてまで準備を整えていたので、戦況としては当初オーストリアが有利でした。

しかし、同盟の一角であったロシアのエリザベータ女帝が急死してしまい、跡継ぎのピョートル3世が軍を引き上げさせてしまったため、一気に形勢が悪化してしまいます。

その頃には度重なる戦での出費も膨大なものになってしまっており、オーストリアは領土奪回を諦めざるをえなくなりました。

母親としてのマリア・テレジア

マリア・テレジアはこれまた凄い事に、この二つの戦争(オーストリア継承戦争、七年戦争)の間、ほぼ毎年子供を産んでいるのです。

マリア・テレジアと夫のフランツは又従兄妹同士の恋愛結婚という当時は珍しいケースだったので、夫婦とても仲が良かったそうです。

彼女が産んだのは男の子が5人、女の子が11人で計16人にもなります。

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マリア・テレジアの大改革

これら公私共に激務をこなした上、彼女はさらに国の大改革にも着手しています。

二つの戦争にひとまず決着はついたものの、この戦争でオーストリアの弱さを痛感し、彼女は大改革に乗り出します。

まずは富国強兵に着手し、傭兵制をやめて、身分に関係なく入隊でき、給料がもらえる皇帝の直属軍隊をつくりました。

さらに、「強い国家には人材が必要」と考え、教育制度の改革に取り組みます。

ハプスブルク家の支配地域内にはあらゆる少数民族がおり、言語もそれぞれ異なっています。

そこで彼女は、領土全域に小学校を新設し、それぞれの言語に合わせた教科書を配り義務教育制度を整備しました。

その結果、国民には一定レベルの学力が身につき、知的水準が大幅に上昇します。

そして資金調達のために、全国一律の徴税制度をひきました。適切な徴税ができるよう国勢調査も行い、国民全員に一定の税金を納めさせました。

さらには宗教改革にも着手します。当時はイエズス会の宣教師らが、遺言と称して臨終間近の老人に財産をすべて寄付させるなどの行為が横行していました。彼女は彼らを追い払い、国民が自由に教会に通い、適切な寄付ができ、信仰心を高められるようにしたのです。

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そのほか病院の建設など衛生制度の改善や、正式な裁判所による裁判を始めるなど、近代国家が現代も行う制度や仕組みを世界に先駆けて実施しました。

さらに芸術や文化にも造詣が深く、「国民に美とは何かを伝えたい」と現在は世界遺産に登録されているウィーンのシェーンブルン宮殿を整備しました。

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(↑↑冬にシェーンブルン宮殿行ったら花咲いて無かったww 春に行けばこんな感じです↓↓)

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そして人材登用能力にも優れ、優秀な人材は年齢や位、出身を問わず主要ポストに抜擢しました。彼らは多方面で活躍し、国家を支えていきました。




マリア・テレジアの実行力、発信力、決断力、発想力の源は、「国民に幸福になってほしい」という愛国心と、信仰心にあります。

敬虔なカトリック教徒だった彼女は、毎朝必ず祈祷室で祈りを捧げることが日課でした。

生涯にわたり改革を続けた彼女を支えたのは、なんといっても最愛の夫と子どもたちの存在です。

初恋の人である夫を生涯愛し続けた彼女は、夫亡き後は宝石もドレスも身につけず、自身が亡くなるまでの15年間を喪服で過ごしました。

良き妻であり、良き母であり、素晴らしい政治家であり君主であった彼女は、「ヨーロッパ近代化の母」と呼ばれ今でも慕われています。

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