今回もロシア革命の解説です!
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ロシア革命の終わりとその後
十月革命後、ボリシェヴィキ政権により休戦協定が締結されると、戦争から離脱した兵士は故郷に帰りました。
そしてその大半は農民でしたが、ボリシェヴィキの支配は農村にまでは届いておらず、彼らはボリシェヴィキ政権に反対し、武力蜂起をしました。
これに対して1918年1月、トロツキーは反ボリシェヴィキ軍に対抗するために、赤軍を組織して軍事力を強化します。
しかし、急ごしらえの赤軍は思うように戦うことができません。次第に押されるようになり、赤軍の勢力範囲はモスクワを中心とするロシア中央部の地域に包囲されてしまいます。
一方で、ロシア革命が再び起こることを恐れたイギリス、フランスをはじめとした列強各国も、軍隊を派遣します。反ボリシェヴィキの連合国は、3月にはイギリス・フランス軍が、8月にはアメリカと日本が共同でシベリアに出兵しました。
この内戦と干渉戦争は長期化し、しだいに農民たちはボリシェヴィキ側に傾いていきます。地主が再び力を持つよりはましだと考えるようになったからです。
ボリシェヴィキ政権は明確な土地政策を示し、農民の支持を取り込むことに成功します。
赤軍はその後、反転攻勢に打って出て、1919年10月には各地を占領していた反ボリシェヴィキ勢力は撤退を余儀なくされます。
これ以降、大規模な戦闘はなくなり、1920年10月には内戦が終結しました。
内戦の最中、ボリシェヴィキ政権は国内の秩序回復のため、警察の権力を強化し、「戦時共産主義」という経済政策に移行していました。
チェカと呼ばれる警察権力は強化され、ボリシェヴィキの政敵を一掃する粛清が平然とおこなわれるようになります。しまいには、1918年7月に、退位した皇帝ニコライ2世とその家族を銃殺します。
戦時共産主義は、農民から強制的に食料を供出させ、食料危機からの脱出を図ったものですが、農民から激しい反発を招きました。しかしチェカがそれを抑え込み、ロシア全土から自由な空気は薄れていったのです。
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