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北方領土問題とは:四島返還論はありえません!!(前編)―もともとは二島返還論だった

現在もロシアとの交渉が難航している北方領土問題(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)。

日本の主張は徹底して四島返還論ですし、国民も多くはそう考えていると思います。

今回は、なぜ日本の国論が四島返還論になったのか、そもそも正当性はあるのか、2回に分けて考えて行きます。

ドキュメント 北方領土問題の内幕 ──クレムリン・東京・ワシントン (筑摩選書)

そもそも、北方領土は1855年の日露通好条約(川路聖謨※かわじとしあきら、エフィミー・プチャーチン)によって日本の領土になったものです。

(外務省のHPより引用)

では、どのようにして北方領土問題は交渉されてきたのでしょうか。

吉田茂の嘘の証言

まずは、サンフランシスコ平和条約を締結するにあたっての交渉を見てみましょう。

1946年2月、ヤルタ協定の公表と関連して、ソ連は南サハリンクリル諸島を併合したと発表し、日本はサンフランシスコ平和条約でこれの放棄を確認しています。

条約締結時の首相、吉田茂は当時を振り返った際のインタビューで、

「ダレス氏の示唆にもとづき、会議の演説において択捉、国後両島はいわゆる千島には含まれず、外人未住の日本固有の領土なる所以を強調した。」(産経新聞1956年9月8日号)

と述べており、択捉島までが日本の国境だと訴えたと言っています。

もともとは二島返還論だった

しかし、この吉田の産経新聞に対する発言の真偽はどうなのでしょうか。

1956年と言うと、自民党が結党されて間もなく、四島返還論が自民党の党議、つまりは日本の国論として形成された直後です。その中で、彼はこの様に発言せざるを得なかったのではないかと思います。

実は、ダレスが重光外相を恫喝した際に、以下のように述べたという記録が外交文書に残っています。

択捉、国後がクリル諸島の一部でないというのは難しい。吉田政府は米国に歯舞、色丹はクリル諸島の一部ではないという態度を取るように求めたが、択捉、国後については同種の要求をしなかった。」(『1955年から57年までの外交文書集』日本編)

つまり、ダレスがクリル諸島を南サハリンと共にソ連に渡すという平和条約第一案を出した時に、吉田政府はこれを受け入れたのです。

そしてダレスは会議の席上で、歯舞諸島はクリル諸島に入らないと明言しています。吉田は会議の演説の中で、

歯舞、色丹は北海道の一部であります。これがソ連によって不当に占拠されております。」

と述べており、放棄するクリル諸島にはこの2島は入っていない事を訴えていますが、択捉、国後に関しては一切言及していません。

そして、1952年1月の平和条約発効に際しては、国会で

「中ソ友好条約が存在し、日本共産党を指導して、治安を乱している限り、また歯舞、色丹などの占領をやめて返さない限り、ソ連との間に平和条約を断じて締結しない。」

という発言をしています。

その後、1952年7月の衆議院本会議においては「領土問題の早期解決を望む決議」がなされました。

領土問題については「小笠原、沖縄、歯舞、色丹」の4つが挙げられており、択捉、国後については触れられていません。

つまり、皆さんお分かりの通り、サンフランシスコ平和条約締結時の日本政府の方針は択捉、国後を含むクリル諸島の放棄だったのです。

では、その後どのようにして日本は四島返還論に舵をきっていくのでしょうか。次のブログに書いていきます。

ドキュメント 北方領土問題の内幕 ──クレムリン・東京・ワシントン (筑摩選書)




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TAIKI
1999年、川崎市出身の大学生。明治大学文学部在学。趣味は歴史研究、読書、旅行。若者の政治参加推進を掲げて幅広く活動しながら、参議院議員の音喜多駿に憧れ、政治について勉強中。雑記ブログを2019年10月7日より毎日更新中。2020年10月、赤羽でBARをスタート。都内での活動を経て、2021年より衆議院神奈川10区金村りゅうな事務所スタッフとして活動中。