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「補佐役」としての生き方
歴史上において、日本を見ても世界を見ても、「名参謀」という存在は幾度となく登場します。
三国志における諸葛孔明はあまりにも有名ですよね。
そして名参謀は「トップを支え、勝利へと導く戦略を提案していく」事が仕事だとされています。
しかし豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の場合は、それとは少し違いました。
秀長は、
「自分は兄の心身の一部となろう」
と考えたのです。
彼の秀吉に対する仕事ぶりは、秀長という独立した弟が存在するのではなく、むしろ秀吉の心身の一部となって秀吉の行動を助けようという考え方で一貫しています。
秀長は単に秀吉の参謀としての仕事をしただけでなく、現場の司令官としての優れた能力を持っていました。
トップの秀吉が合戦の現場におらず、最後の降伏セレモニー的な行事にしか参加しない事も多々あったといいます。
つまり秀長にすれば、
「自分が中国方面や四国や九州を平定しているわけではない。兄が平定しているのだ。自分は兄の分身であり、その一部なのだ」
という訳です。
秀長が参加できなかったのは、秀吉の最後の事業、小田原の北条征圧のときだけでした。
この時、彼は既に病の床にあった為、秀吉の天下平定の実現を見ずに先に死んでしまいます。
天才的な裏方
しかし、ここまで優秀な秀長がなぜ歴史的に目立たなかったのでしょうか。
この理由として、彼が二番手主義だったから、という見方をされます。
そして普通は、この二番手からもあわよくばトップに立とうというような動きを見せる人もいますが、秀長は絶対にそんなことはしませんでした。
実際彼の場合には、この二番手にも存在していません。
というのは、前述の通り秀長は、「兄秀吉の一部になろう」と考え、秀吉の心身の一部と化してしまっているのです。
しかし秀吉の心身の一部になったということは、単に秀吉の思い通りになったということではありません。
秀長は、「兄のよくない言動については、チェックをし、これを矯正していこう。」そのことが、「兄の仕事をより良く天下に示すことになる。また評価を高めることにもなる。」と考えました。
ただ、そこには自分よりもまずトップである兄のことを考える思考が常に根底にはあるのです。
こういった、秀長のように完全にトップと一心同体化した補佐役は、歴史の表では殆ど語られません。
■
自分よりもまず相手もことを考える。
しかし、相手の良くないと思ったところは相手の為に指摘する。
こういった思考は組織論だけでなく、社会で生きて行く上で何事にも応用出来る重要な事だと思います。
たまには歴史を見るときに、リーダーではなく、補佐役に目を向けてみるのも面白いかもしれません。
▷▷名補佐役・豊臣秀長から学ぶ組織論 「参謀」と「補佐役」の違いとは何か
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