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《世界史解説》神聖ローマ帝国による対オスマン帝国プロパガンダ





今回は神聖ローマ帝国がオスマン帝国との戦争のために行ったプロパガンダについてです

前提知識

ハプスブルク家:ヨーロッパの名門王家。神聖ローマ帝国の皇帝を多数輩出。オーストリア=ハプスブルク家とスペイン=ハプスブルク家にわかれるが今回はオーストリアの話。オスマン帝国と仲が悪く、東欧地域を巡って争う。

オスマン帝国:アナトリア半島に建国された当時世界最強の大国。イスラーム法に基づいた寛容な統治で帝国を拡大し、ヨーロッパを虎視眈々と狙う。一番近いヨーロッパの大国、オーストリアのウィーンまで二度攻め入る。

・ハプスブルク皇帝による対オスマン帝国政策

歴史上、オスマン帝国と常に対峙していた神聖ローマ帝国でしたが、そもそも帝国には恒常的な税制というものが存在していませんでした。そのため対オスマン帝国戦争への資金集めは困難を極めるものであり、歴代ハプスブルク皇帝の悩みの種でもありました。

そもそも帝国の民衆には、自分たちが帝国国民であるという国民意識が存在していないため積極的に協力するものは多くなかったといいます。(神聖ローマ帝国は各国の緩やかな連合体のため。)

恒常的な税制がない神聖ローマ帝国でも名目上は臨時税としてトルコ税の徴収が毎年行われていましたが、議会で否決される可能性もあり不安定なものでした。そのため皇帝は民衆へのプロパガンダを行うことによって徴税をスムーズにしようと試みが行われます。

まず、皇帝によるトルコ税徴税のためのプロパガンダを見る前に、皇帝によってではなく知識人によって出版された「ユートピアもの」という種類のプロパガンダを見ていきます。これはオスマン帝国には素晴らしい生活、習俗、政治があるというヨーロッパ社会への批判です。

これによってオスマン帝国への憧れ(Türkenhoffnung)が一部に広まり、オスマン帝国へ逃げ出す民衆もいました。この「ユートピアもの」の代表例が以下のマルティン・ルターの文章です。この考え方は堕落したカトリックを批判して聖書に基づく社会主義の実現を目指すドイツ農民戦争に繋がったのではないかと考えられます。

私は愛する信徒の皆さんにお願いするが、トルコ人のほうが我々の君主らよりもはるかに賢明であり、篤信者であるから、我々はトルコ人を敵として出征することも、金銭の提供も、もちろんしたくはない。(1524年『皇帝派の一致せぬ矛盾した二つの掟』)

次に、皇帝が徴税のためのプロパガンダとして発行した「ホラーもの」というものがあります。これはトゥルツィカ(Turcica)(ニュースなどオスマン帝国関係出版物) によって民衆にオスマン帝国のマイナスイメージを植え付けるものでした。

そしてこの「ホラーもの」のトゥルツィカの中にも大きく分けて3種類あるが、その中でも特徴的なのが以下の二つです。

・オスマン帝国の残虐さに触れつつもセンセーショナル過ぎない「固い」もの

トルコ人はパロタを8000人の兵力で包囲していた。そこへ皇帝はドイツ人12隊を率いたヘルフェンシュタイン伯ゲオルクを送り、そこへクラウス・フォン・ヘットシュタットが自らの部隊とともに合流した。ラープにいたザルム伯エックハルトも、そこへ加わる命令を受けた。(1566年アウクスブルクで出された対オスマン戦争の様子についてのニュース冊子)

これはハンガリーなどの前線でハプスブルク家に仕えている兵士から皇帝に送られてきたものをそのまま掲載しているニュース冊子のテキストの訳文であり、民衆に直接リアルな対オスマン帝国戦争の様子を伝えました。

・ひたすら恐怖を掻き立てるもの

この中でも代表的なのが「宣戦布告もの」と呼ばれるジャンルのものです。これはスルタンが行った宣戦布告のテキストとオスマン帝国軍による残虐行為の図像を民衆に広めるものでした。

図1. 対ハプスブルク、ウィーンさらには「ドイツ全土」を攻撃するとの通告

図2.対ベネチア、キプロスを要求

図3.「宣戦布告もの」より串刺しの図

図4. 裸で売られるキリスト教徒

図1、2のような通告、要求は実際に行われたものですが、図3、4のような2つのモチーフはオスマン帝国への恐怖を強調するものであり、民衆の恐怖をあおる広告としては定番のものでした。

これらトゥルツィカ1冊の発行部数が1000を超えることはありませんでしたが、様々な種類のトゥルツィカが発行されました。そしてそれによって民衆のオスマン帝国のイメージを形成し、スムーズなトルコ税の徴税に成功しました。しかしオスマン帝国への恐怖心を煽る事には成功したものの、民衆の神聖ローマ帝国国民としての国民意識を形成するにはまだ不十分であったといえます。

これらからわかるように、ハプスブルク家は情報戦略によってオスマン帝国に対抗しました。しかしオスマン帝国は神聖ローマ帝国のように新聞やニュースによってヨーロッパに対抗するというようなことをしませんでした。なぜならそもそもアラビア語での印刷が禁止されていたからです。

そのため神聖ローマ帝国がトゥルツィカの出版を開始してからこの2国の力関係は逆転しています。このことはスルタンが16世紀まではイギリスのエリザベス女王の事をイングランド州の女王(クラリーチェ)と呼び、神聖ローマ皇帝の事をウィーンの王(クラル)と呼んでいたのに対し、17世紀以降はヨーロッパ各国の王に対して自らに用いる称号であるパーディーシャーと呼び始めたことからも考えられます。

つまり、ハプスブルク家はこの宗教的考えが戦争に及ぼす影響が多かった時代において、これまでの宗教的政策に傾倒することなく、情報戦略中心の現実主義政策を用いることによってオスマン帝国に対抗したのです。



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